【AIに代替されないものづくり】2026年、形はもう誰でも作れる。それでも僕が削り続ける理由。
効率化の時代に、あえて手を動かすということ。
AIの進化は加速しています。そして、誰もがAIを使うことのできる時代になりました。2026年、そんな時代に、僕たちは何をすべきなのか?
今回はこのことについて、僕自身の考えを書いていきます。
こんにちは、りょうです。
最近、ものづくりをしながら、ふと考えることが増えました。
今はAIが文章を書き、絵を描き、動画まで作る時代になりましたね。数年前なら「人間にしかできない」と思われていたことが、次々とAI(機械)の手に渡っています。
少し前にはホワイトカラー(頭脳労働(オフィス系))よりもブルーカラー(現場労働(ものづくり・作業系))の方が一周まわって価値が出てくるとも聞いたことがあります。
僕も実はこうして発信をするときに、AIに相談したり、文章を整えるのを手伝ってもらったりしています。便利だし、正直、助かっている。だからこそ、その進化の速さを、肌で感じてもいるんです。
ロボットや自動化の技術も、どんどん先へ進んでいます。実際に工場の現場では、人の手でしかできないと思われていた作業が、次々に自動化されている。
「形あるものを手で作る仕事は、まだ大丈夫」
少し前まで、なんとなくそう思っていました。実物がある。手を動かしている。だから自分の仕事は、しばらくは安泰だろう、と。
でも今は、その自信がだんだん揺らいできています。
今日は、そのことについて正直に書いてみようと思います。
先に言っておくと、AIを批判したいわけでも、神格化したいわけでもありません。「人間の方がすごい」みたいに、きれいな結論を出すつもりもないんです。
ただ、ものを作る人間のひとりとして、自分が今どこに立っているのか。それを静かに確かめておきたくなった。それだけです。
少し長くなりますが、よかったら最後までお付き合いください。
ものを作るのが、ただ好きだった。
そもそも僕は、子どもの頃から何かを作るのが好きでした。
学校の授業でも、技術や美術の時間が一番好きで。図工の時間が待ち遠しかったのを、今でも覚えています。手を動かして、頭の中にあったものが、目の前に少しずつ形になっていく。あの感覚が、たまらなく好きだったんです。
大人になってからも、その気持ちは変わりません。
気がつけば、ものづくりの現場で働くようになっていました。会社員として勤めている本業は、金属加工の仕事です。もう十数年、この世界にいます。
すいません、急に「金属加工」と聞いてもなかなか分からないですよね。少しだけ、その世界の話をさせてください。
金属加工というのは、想像以上にシビアな世界です。僕がいるのは、精度0.001mmを追いかける現場。
0.001mmと言われても、ピンとこないですよね。
コピー用紙一枚の厚みが、だいたい0.1mmくらいです。その、さらに百分の一。一般的な定規にも1mm単位で線が引かれていると思いますが、1mmの誤差なんてもう大きすぎるくらいの感覚です。
そんな細かさで、寸分の狂いも許されない。どんなに忙しくても、数字が狂うことは許されない。そういう緊張感の中で、毎日、数字と機械と向き合い続けてきました。
正直、しんどいことも多い仕事です。
でも、経験を重ねるたびに自分の手と感覚が、少しずつ研ぎ澄まされていくのは、素直に面白かった。素材を見る目、加工の感覚、仕上げの精度、機械の扱い方。そういうものが、自分の体の中に蓄積されていく実感がありました。
金属加工の世界は奥が深いと思っています。素人が一朝一夕でできる仕事ではありません。機械、寸法、材料、形状、工具、温度、加工条件、などなど。複雑に絡み合うポイントを理解して考えながら作業をしなければいけません。
そして数字やデータだけではやり切れないのが面白いところでもあります。見て、聞いて、触って、人間の感覚が重要な部分が非常に多いのも事実です。
製品を、図面通り正確に作る。
簡単そうで難しい。それが金属加工のお仕事です。
僕は仕事に限らず何かを夢中で作っているとき、本当に時間を忘れてしまうんです。気づいたら何時間も経っている、なんてことはしょっちゅうあります。
ものを作るのが楽しい。ひとつのものが、加工を進めていくとどんどん形を変えて、完成に近づいていく。難しい作業の内容であればあるほど、完成した時の喜び、達成感は大きいです。
その純粋な気持ちが、たぶん僕のすべての原点なんだと思います。
そして、だからこそ、後で出会った「木」という素材の、金属とはまるで正反対の性質に、強く惹かれることになるんです。この話は、もう少し後で書きますね。
「自分の名前で作りたい」という気持ち。
ただ、長く会社で働くうちに、ひとつのモヤモヤが少しずつ大きくなっていきました。
どれだけ自分が頑張って良いものを作っても、それは最終的に「会社のもの」になる。
完成した製品に、自分の名前は残らない。お客様から直接「ありがとう」と言われることも、ほとんどない。
もちろん会社員という立場は理解しているつもりですし、そこで働く選択をしているのも自分です。今の会社や、一緒に働く仲間には、本当に感謝しています。人にも環境にも恵まれた、良い職場です。そこは前提として、はっきり書いておきたい。
でも、心のどこかでずっと、何か引っかかっていたんです。
数年前、自分の人生や価値観を、時間をとってじっくり見つめ直したことがありました。ノートに思っていることを書き出しながら、「自分はものづくりを通して、本当は何がしたいんだろう」「一度限りの人生どう過ごしていきたいんだろう」と、ひたすら掘っていったんです。
そうして見つかった言葉が、これでした。
「自分の名前で自分の手で、誰かの心を動かすものを作りたい」
ずっとモヤモヤしていたものが、やっとひとつの言葉になった瞬間でした。考えにも、行動にも、ひとつ「軸」ができた。そんな感覚があったんです。
その「軸」が定まってから最初に個人で挑戦したのは、木材と樹脂を組み合わせたウッドレジンのアクセサリーでした。






その後は、アクリル画の絵を描いて夢中になっていた時期も。









どれも本気で取り組んだし、買ってもらえたときは本当に嬉しかったです。
でも、いざ「これを事業にして、人生をかけてやっていけるか」と考えたとき、僕は自分の姿を、うまく思い描けませんでした。
絵を描く力も、まだまだ足りない。長く続けてきた人たちとの差も、はっきり感じる。
それより何より、ものづくりの現場で十数年やってきた自分の強みを、いちばん活かせる場所はどこだろう、と考えたんです。
その答えが、「木軸ペン」でした。
木という自然素材を旋盤加工で加工する。金属や機構という精密な要素。そこに作り手の感性が加わる。素材と技術と想いを、一本に込められる。
これまで培ってきたものを、まっすぐ注ぎ込める。
そうして始めたのが、『木綴』という木軸ペンのブランドです。
自分の作ったペンを手にした誰かが、「このペン、いいな」「書く時間が好きになった」と言ってくれる。その言葉を、間に誰も挟まずに、直接受け取れる仕事がしたかった。
それが、会社員としての毎日では、どうしても得られない感覚だったから。
それに、数年前から僕は「個人の力で生きる」という働き方に、強く惹かれています。
時間の使い方も、働く場所も、届けたい相手も、すべて自分で選べる自由さ。簡単な道じゃないことは、わかっています。でも、自分の作るものが誰かの役に立って、心を動かせるようになったら。それは僕にとって、理想の働き方だと思うんです。
命には、限りがあります。
せっかく生きているなら、自分のものづくりで、何かを残したい。会社員を続けながらでも、自分の名前で、もうひとつの軸を育てていきたい。
そんな気持ちが、木綴を始めた本当の動機です。
正直に言うと、この形はNCでも作れる。
ここからが、今日いちばん書きたかったことです。
少しだけ専門的な話になりますが、できるだけわかりやすく書きますね。
僕が木綴のペンを削っているのは、「木工旋盤」という機械です。木材を回転させて、刃物を手で持って当てながら削り出していく。
そして、本業で僕が長く触れてきた金属加工の機械のひとつに「NC旋盤」と呼ばれるものがあります。
ざっくり言うと、あらかじめプログラムを組んでおけば、機械が自動で、寸分の狂いもなく同じ形を削り出してくれる仕組みです。一度プログラムを作ってしまえば、同じものを何百本でも、寸分違わず再現できる。
ここで、正直に認めなければいけないことがあります。
木綴のペンの「形そのもの」は、たぶんNCのプログラムを組めば、機械でも作れてしまう。
ストレートの軸も、寸法も、わずかな曲線も。すべて数値として記録して、機械に渡せば、同じ形は再現できる。理屈の上では、僕がいなくても、その形は生まれてしまうんです。
産業用のロボットも、僕が想像していたよりずっと器用になっています。「実物があるものづくりだから、自分の仕事は大丈夫」という考えは、もう通用しなくなってきている。
これは、認めたくないけれど、本当のことだと思います。
少し前まで、僕はここを見ないようにしていました。「手仕事だから大丈夫」と、自分に言い聞かせていた気もします。
でも、それで本当の安心は得られないな、と最近思うようになりました。目をそらしているだけでは、いつか足元をすくわれる。だったら、いちばん怖いところを、先に正面から見ておきたい。
「手で作っているから価値があるんです」と言うのは、簡単です。
でも、その手の動きすら、いつかはデータにして、機械に覚えさせられる時代が来るのかもしれない。そう考えると、「手仕事だから絶対に大丈夫」とは、もう軽々しくは言えない。
だから僕は、「ものづくりは絶対にAIに代替されない」とは言いません。
完全に代替されない、と言いきる自信は正直ありません。
ここを濁したまま「手作りはあたたかい」なんて話をしても、たぶん何も伝わらないと思うので、まずは正直に書いておきたかったんです。
……ただ。
それでも、です。
ネットの中だけで完結する仕事と比べたら、まだここには、自分の居場所がある気がしている。
うまく言葉にできないけれど、その「気がする」を、これから少しだけ掘ってみたいんです。
それでも、僕がここにいる理由。
NCと、木工旋盤。
このふたつを比べたとき、決定的に違うことがあります。
金属加工のNCは、刃物を機械に固定して、すべてを数字でコントロールします。寸法も、回転数も、削るスピードも、ぜんぶ数値で決まる。だからこそ、誰がやっても同じものができる。それがNCの強さです。
でも、木工旋盤は、まるで違うんです。
刃物を、自分の手で持つ。
数字や目盛りで追うんじゃなくて、五感を使って判断する。木の硬さ、刃物の角度、当てる強さ、その日の湿度。全部が複雑に混ざり合って、仕上がりが決まっていく。
同じ機械を使っても、人によってできるものが全然違う。職人の技術や感覚が、そのまま仕上がりに出る世界なんです。
それに、木は一本ごとに性格が違います。
楓には楓の、黒檀には黒檀の癖がある。同じ角材から切り出しても、この一本とあの一本では、木目の流れも、刃の入り方も違う。硬い部分もあれば、やわらかい部分もある。
削っていると、サクサク削れる瞬間があります。逆に、繊維が逆らってきて「あ、ここは慎重にいこう」と、自然に手が止まる瞬間もある。
その都度、判断しているんです。
もう少し攻めるか、ここで止めるか。あと0.1mm削るか、やめておくか。木の表情を見て、手の感覚を頼りに、一瞬ごとに決めている。
「あ、削りすぎた」と気づくのも、コンマ数秒の感覚です。その手前で止められるかどうかは、これまで積み重ねてきた時間が決めている。
実際、何度も失敗してきました。
あと少しの欲が出て、削りすぎてしまう。木目を読み違えて、刃が引っかかる。最後の仕上げで、それまでの一本が台無しになることもある。
そういうとき、頭で考えているわけじゃないんです。手が、指先が、「あ、まずい」と先に気づく。間に合うときもあれば、間に合わないときもある。
おもしろいもので、金属加工で精度0.001mmの世界に十数年いたからこそ、木工旋盤の「数字にできなさ」が、よけいにくっきり見えるんです。
金属は、数字で完全に追える。だから、機械に任せられる。任せた方が、正確で速い。
でも木は、その日の一本ごとに、こちらが合わせにいくしかない。同じ設定で削っても、同じ結果にはならない。だからこそ、僕の手が、そこにいる意味がある。
これは、数字には落とし込めない。少なくとも、今の僕がやっている削り方は、その都度の判断の、途切れない連続でできています。
ここまで考えてきて、ひとつ、腑に落ちたことがありました。
「ものづくりがAIに代替される」というより、ものづくりの中にある「情報処理の部分」が自動化されていく、ということなんじゃないか、と。
決まった形を、決まった通りに再現する。同じものを、正確に、速く作る。
その部分は、もう間違いなく、機械の方がずっと得意です。そこで張り合っても、勝ち目はありません。
でも、「この一本の木を、今日、どんなふうに削るか」を、その場でゼロから感じて判断している部分。
そこに、作り手の意図と判断が、その都度ちゃんと介在しているかどうか。
それが、たぶん境界線なんだと思います。
削っているときの、木と対話しているような感覚。
完成して、手のひらに乗せて、「うん、いい一本になったな」と思える瞬間。
そして、それがお客様の手に渡って、しばらくして「書く時間が好きになりました」と言ってもらえたとき。
削っている時間、完成した瞬間、誰かの手に届いたとき。
このそれぞれの場面で感じるものは、全部すこしずつ違います。集中して無心になる時間もあれば、ほっと肩の力が抜ける瞬間もある。届いた報告に、思わず一人で笑ってしまう夜もある。
このひとつひとつを、僕はその場で、その都度、感じて、選んで、ここまで来ています。
形だけなら、機械にも作れる。でも、この一連の「なぜ」と「どう」は、僕の中にしかない。
たぶん、そこなんです。僕がまだ、ここに立っていられる理由は。
だから、過程を見せることが、僕のものづくり。
そう考えると、もうひとつ、腑に落ちたことがありました。
こうしてSubstackやInstagramで、製作の過程や、考えていることを書いていく。これ自体が、僕にしかできない「ものづくり」なんじゃないか、と。
なぜ、この形にしたのか。何を考えながら削っているのか。どんな失敗をして、何を大切にしているのか。
その動機と、意図と、過程を、言葉にして届けること。
完成したペンの写真を一枚載せるだけなら、誰にでもできます。AIに頼めば、きれいな商品説明だって、いくらでも書いてくれるでしょう。
でも、その一本が生まれるまでに、僕が何を考えて、何に迷って、何度やり直したのか。それを本当の意味で語れるのは、その場にいた自分だけです。
考えてみると、木綴が本当にお届けしているのは、ペンという「物」だけじゃないのかもしれません。
りょう という人間が、迷いながら、判断しながら、一本ずつ作っている。
その事実そのものを、受け取ってもらっているのかもしれない。
「木綴のペンが良さそう」ではなくて、「りょうさんが作るから、欲しい」。
もしそう思ってもらえているなら、それはきっと、形やスペックだけじゃなく、その奥にいる人間ごと受け取ってもらえているということだと思うんです。
実際、ペンを買ってくださった方から、こんな言葉をいただいたことがあります。
「天然木の質感、触り心地がとにかくいい。使うほどに飴色に育つところも楽しみ。手仕事のいいものって、やっぱりいいなぁ。私ももっとがんばろう、って気持ちになります」
この言葉が、僕は本当に嬉しかった。
ペンの書き心地を褒めてもらえたことも、もちろん嬉しい。でもそれ以上に、「私もがんばろうと思える」と言ってもらえたこと。
それは、ペンという物だけじゃなくて、その向こうにいる「作っている人間」まで、ちゃんと届いていたということだと思うんです。
別の方は、「何も実績のない僕のペンを信じて買ってくれて、ありがとうございます」という僕の言葉に、こう返してくれました。
「ファーストロットを買えたのが何より嬉しい。これからも応援します」
応援する、という言葉。
これは、ただの「商品」には、たぶん向けられない言葉だと思うんです。
商品そのものに対しては、「便利だ」「気に入った」とは言っても、「応援する」とはなかなか言わない。応援は、その向こうに、頑張っている人の姿が見えたときに、はじめて生まれる気持ちだと思うから。
だとしたら、僕がやるべきことは、はっきりしています。
うまくいったことも、いかなかったことも。迷っていることも、まだ答えが出ていないことも。隠さずに、ちゃんと見せていくこと。
そうやって過程を分かち合うこと自体が、僕にしかできない、いちばん大事な「ものづくり」なのかもしれません。
だから僕は、これからも過程を見せ続けようと思います。
きれいに完成した姿だけじゃなくて、削りすぎて失敗した話も、まだ答えが出ていない話も。うまくいかなかった日のことも、正直に書いていきたい。
完成品より、過程の方が、案外おもしろい。
そういう、揺れている部分こそが、たぶんいちばん人の心に届くものだから。
効率化の時代に、あえて手で書くということ。
ここまで書いてきて、ひとつ思い出したことがあります。
そもそも僕が「木軸ペン」というものを選んだのも、似たような感覚からでした。
世の中は、すごい速さでデジタル化が進んでいます。スマホがあれば、メモも、予定も、文章も、全部そこで済んでしまう。手で書く機会なんて、どんどん減っている。
そんな時代に、わざわざ木のペンを手に取って、紙に文字を書く。
一見、時代に逆らっているように見えるかもしれません。効率だけを考えたら、明らかに非効率です。
でも僕は、こう思っているんです。
便利になればなるほど、「あえて手間をかけること」の価値が、静かに上がっていくんじゃないか、と。
手で書くと、思考が整います。書くスピードがゆっくりだからこそ、一度立ち止まって考えられる。忙しい毎日の中で、手を止めて、一息ついて、ゆっくり文字を書く。その時間が、心を整えるきっかけになる。
僕自身、何年も書く習慣を続けてきて、それを実感しています。
「木綴(もくつづり)」という名前には、『木のぬくもりを感じながら、日々の想いを綴る』という意味を込めました。
書く時間を、もっと好きに。
それが、このブランドにずっと込めている願いです。
そして、これはAIの話とも、どこかでつながっている気がするんです。
なんでも自動でできるようになるからこそ、「自分の手で、時間をかけて、誰かのために作る」ということの意味が、これから少しずつ、深くなっていくんじゃないか。
効率化された世界の中に、あえて非効率な余白を残しておく。
僕の作るペンが、誰かにとって、そういう余白のような存在になれたら。それは、すごく嬉しいことだなと思います。
答えは出さないまま、今日も削る。
「AIに代替されないものづくりとは、何か」
正直に言うと、僕の中でも、まだ答えは出ていません。
技術はこれからも進んでいくし、数年後にはまた、まったく違う景色が見えているかもしれない。今日書いたことが、的外れになっている可能性だって、じゅうぶんにあります。
だから、ここで無理に結論を出すのは、やめておこうと思います。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあります。
僕は今日も、旋盤の前に立って、木を削っている。
木の表情を読みながら、刃の角度を変えながら、「この一本で書く時間が、少しでも好きになりますように」と思いながら。
その時間が、好きなんです。
代替されるとか、されないとか。本当はそれより前に、ただ作ることが好きで、誰かに届けたくて、僕はここに立っている。
きっと、それだけは、これからも変わらない。
そういう人間が作ったペンだということを、もし少しでもおもしろいと思ってもらえたら。その上で、「この人から買いたいな」「ちょっと応援したいな」と感じてもらえたら、これ以上うれしいことはありません。
木綴のペンは、オンラインショップでお迎えいただけます。よかったら、覗いてもらえたらなと思います。
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それではまた次回もお楽しみに。 最後までありがとうございます。
りょう|木綴 -mokutsuzuri-




ぐいぐいと腑に落ちました。この時代に手で書くことの意味を誠実に問いかけていて、読んでいる間ずっと唸っていました。
読んだら欲しくなっちゃうなー 応援してます